日本で唯一の塩田が、
また海水を撒きはじめた。
要点:石川県珠洲市の「揚げ浜式製塩」は、砂と海水と太陽と火だけで塩をつくる、いま日本で唯一残る塩づくりの技法です。国の重要無形民俗文化財に指定され、日本で初めて世界農業遺産に認定された「能登の里山里海」の一部でもあります。2024年の地震と豪雨で塩田も傷みましたが、奥能登塩田村は2025年春に年中無休で営業を再開し、各地の作り手も少しずつ塩づくりと販売を戻しています。夏は塩を撒く最盛期。ただし在庫・価格・営業は変わる前提で、購入は各店・公式でご確認ください。
スーパーの棚に並ぶ塩は、たいてい数百円で、どれも同じ白い粒に見えます。塩に産地を思うことは、正直あまりありません。けれど日本には、砂浜に海水を桶で撒くところから始める塩づくりが、たった一か所だけ残っています。石川県珠洲市、能登半島の先端です。今日は、その「揚げ浜式製塩(あげはましきせいえん)」という手仕事と、地震と豪雨をくぐり抜けていま戻りつつある現場を、産地の目線でたどってみます。
砂と海水と、太陽と火。手だけでつくる塩
揚げ浜式は、名前のとおり浜に海水を「揚げる(運び上げる)」ことから始まります。粘土で固めた塩田に、汲み上げた海水を人の手で撒く。夏の炎天で水分を飛ばし、塩分のついた砂を集めて、そこへさらに海水を通して「鹹水(かんすい)」——塩分の濃い水——をつくる。最後に、その鹹水を大きな平釜で薪の火にかけ、何時間もかけて煮詰めていくと、白い結晶が残ります。前半の浜での仕事を塩浜作業、後半の釜での仕事を釜屋作業と呼びます。つまり、いちばん大きな道具は夏の太陽そのものなのです。
この製法はとても古く、慶長元年(1596年)に谷内浜で営まれたのが能登塩田のはじまりと伝えられます。江戸時代には、加賀藩三代藩主・前田利常が農民救済のため「塩手米(しおてまい)」の制度を敷き、能登一帯で塩づくりを奨励しました。農耕地の乏しい外浦の海岸で、人々が生計を立てる手段として続けてきた歴史があります。
| 工程 | やること | 効いているもの |
|---|---|---|
| 塩浜作業 | 塩田に海水を撒き、天日で乾かして塩分のついた砂を集め、海水を通して濃い鹹水を採る | 夏の日射しと風、担ぎ手の体力 |
| 釜屋作業 | 鹹水を平釜で長時間煮詰め、塩を結晶化させる | 薪の火加減、見きわめの勘 |
手間を数字で見ると重さがわかります。国は1969年(昭和44年)に「能登の揚浜製塩用具」を重要有形民俗文化財に、2008年(平成20年)には珠洲市・角花家に伝わる「能登の揚浜式製塩の技術」を重要無形民俗文化財に指定しました。道具も技も、国が守るべき文化として記録しているということです。そして2011年6月、能登地域の「能登の里山里海」が日本で初めて世界農業遺産(GIAHS)に認定されます。揚げ浜式の塩田は、その里海の伝統技術のひとつに数えられています。
塩づくりは天気次第の仕事です。晴天が続く夏こそが稼ぎどきで、雨が降れば撒いた海水も水の泡になる。だからこの季節、浜には人の手が戻ってきます。
一度途切れかけた手が、また動きだした
ここからが現在の話です。2024年元日の能登半島地震、そして同年9月の豪雨は、この塩づくりの現場も直撃しました。塩田や釜屋、道路が傷み、世界農業遺産に数えられる技術そのものが立ち行かなくなる恐れがありました。「日本で唯一」ということは、ここが途切れれば技法が消えるということでもあります。
それでも、手は戻ってきています。塩づくりを見学・体験できる奥能登塩田村は、2025年4月1日から土日を含む年中無休での営業を再開しました。塩田村に隣接する道の駅すず塩田村も営業を再開しています。作り手の側でも、新海塩産業がオンライン販売を少しずつ戻し(人気の竹炭塩は数量限定)、のと塩の里も生産と販売を再開しています。ただし、どこも在庫が十分とはいえず、「通常営業に戻りつつある」段階だと受けとめておくのが正確でしょう。美談として急がず、続けられる形で戻っていくことのほうが、この手仕事には合っています。
いま、能登の塩に出会うには
味わう道筋はいくつかあります。ひとつは現地です。夏の珠洲を訪ねられるなら、奥能登塩田村や道の駅すず塩田村で、実際に海水を撒く光景を見て、その場で塩を買うことができます。塩浜作業の体験を受け入れている時期もあります。もうひとつは、ふるさと納税や各社のオンラインストアを通じて取り寄せる道です。珠洲市はふるさと納税の返礼品にこの塩を用意しています。
気をつけたいのは、取り扱う品目・価格・在庫・営業日は、時期や店舗、そして復旧の進み具合で変わるということ。特定の商品を名指しでおすすめするより、行こう・買おうと思ったそのときに、各店舗や公式の案内で最新を確かめていただくのが確実です。数量限定の品も多いので、買い占めるのではなく、来年も再来年も浜に人の手が戻るような、無理のない買い方がいいと思います。
使い方は難しく考えなくて大丈夫です。揚げ浜の塩はミネラルを含み、角のとがらないやわらかな塩味が身上とされます。夏なら、塩むすび、冷やしトマト、ゆでた枝豆に一つまみ、天ぷらに添えて——素材の水分が引き立つ料理ほど、塩の違いが素直に出ます。ひと粒の後ろに、砂を担ぐ手と炎天下の釜があることを思い出すと、いつもの一皿が少しだけ違って感じられるはずです。塩は毎日使うのに、どこでどう作られたかを知る機会はほとんどありません。能登の夏の塩は、その来歴が見える数少ない一粒です。